チャリティーは1年で終わらせず、野菜を作り続けて行く限り、いや生きている限りずっと継続していくつもりです。だけどそれはそう簡単じゃない…。
会社勤め時代(前職は地方新聞の記者をやっていました)、ある町の障害者施設ひまわりの家に、家庭菜園でできた野菜を寄付していたことがありました。
処分しきれない野菜がたくさんあったので、何かに役立てればとおもった。
ひまわりの家は町の施設である情報センター内で、手造り小物やパンの販売などをして利益を運営資金にしていた。
仕事でよく足を運ぶ情報センターで、そこで働くひまわりの家の子たちと仲良くなって、売上に貢献できればと菜園で余った野菜を寄付していました。そこで働く子たちが素直で、真っすぐなその気持ちで生きている、その力になれればと、率直にそう思ったからです。
◇
毎日ではないにしろ、定期的に持っていくことは意外に大変でしたが続いていました。
ところが、何カ月もすると途中でめんどうになりはじめた。
「どうせ寄付だから、いいや」という考えがよぎったりした。気が向いたら出せばいい。仕事じゃないんだから。
いつのまにかモチベーションは低下し、気持ちが弛み始めていった。
ひまわりの家も寄付された野菜の売上があれば、少しでも助かるはず。どこか心の奥で、野菜を待っていたのかもしれない。
しばらくして、「あの野菜を楽しみにしていたお客も多かった」と、どこからか耳にしたとき哀しくなった。自分自身情けなく感じた。
その時、気まぐれや興味本位、自分本位でやってはいけないことなんだと痛感したのです。待っていた人がいたのです。
そんな簡単なことも分からなかった。
表面には出さずとも心の中で期待をしていた人たち、野菜を楽しみにしていた人たちを裏切ってしまった。
本業の仕事で忙しかった、と言い訳も立つでしょう。だとしたら、説明すべき。
でも、別に忙しくも何ともなかった。結局、面倒になってしまったのです。
ここに大事なことが隠されていた。
善意の気持ちは、ちょっとしたことで有難迷惑になりかねない―ということだ。
そこには、その善意の気持ちの重さがある。軽い気持ちでやってはいけないということなのだ。
赤い羽根共同募金など一時的なことはそれでいい、しかし、続けていくことに意味がある行為ならば、自分自身に「ホントにできるのか」と自答して実行しなければならないということなのだ。
結局、当事者(ひまわりの家)の気持ちを翻弄するに等しい行為となってしまったけど、その愚かな気持ちに気が付いて、再び続けることができ、最後は円満に終わることができた。会社を辞めるまで3年くらい続けられた。
◇
そういう経験をしたので、今回のチャリティーはもちろん厳しく自問自答してエンターキーを押したわけです。
そしてなにより、あの写真を見たこと。それがスタートです。
いつか、くじけそうになるときが来るだろう。
また、あのときと同じように面倒になる気持ちがよぎり、モチベーションが低下し、張り詰めていた気持ちが垂れてくることもあるだろう。
そうしたとき、あの報道写真を見ようと思う。
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